旧某管理人の徒然、移転地。
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自分は子供の頃からの横浜ファンだ。ホエールズ時代からのファンだ。
まあ地元球団ということで何の疑問もなくファンになったわけだが。
ファンといっても好きな野球チームは?の問いに対する答えが即決まっているというだけで、全然真面目なファンではないのだが。
スタメンが言えるかと言えば全然言えないし、ペナントレースも負けたのかーと思うだけで特に何とも思わない。
ただ、それでも万年5位時代もそこそこには気にして、まあそこが定位置、最下位じゃなきゃいいか、巨人とか首位をいじめられればいいかと満足していたりした。
むしろ下手にAクラスなんかにいると落ち着かなかったりするわけで。でも横浜ファンはえてしてそんなもののような気がする。
強すぎると「何かの間違いじゃないのか」とか思うのだ。
そんな遠慮深いというか小心な横浜ファンが豹変した年があった。
忘れもしない1998年。横浜は首位を独走し、シーズン終わりまでそのまま走りきった。
あの年のことは今でも鮮明に思い出せる。
学生だった自分は通学とバイトで横浜や、スタジアムのある関内を経由していたのだが、夏辺りから街はどこもベイスターズ応援一色だった。
俄かファンもすごく多かったと思う。それでも横浜全体でベイスターズを応援しているという空気だった。
何しろ横浜ベイスターズが優勝するのは前身の大洋ホエールズの頃から数えて38年ぶりだったのだ。
あの年のスタメンは全員言えたし、投手陣の名前も言えた。
あの年こそが、まさにベイスターズの黄金の年で、最高のスタメンだったと思う。
そんな中で最も優勝に貢献し、チームを38年振りの優勝までその右腕で引き上げたのが、大魔神佐々木だ。
彼がマウンドに立った時点で勝ちが決まった。
投手は彼まで繋ぐことができれば勝てると信じていた。
打者は彼がマウンドに立てるように点を取ればいいと思っていた。
ファンは彼がマウンドに立った時点で勝利を確信した。
そうしてそのすべての信頼を背負って、一勝一敗45セーブ防御率0.64という偉大な記録を打ち立て優勝をもぎ取り、皆に届けてくれた。
あの年の横浜の街は本当におかしかったと思う。優勝が近づくとどこもかしこも浮き足立っていた。
自分も「ベイスターズが優勝するから」などというわけのわからない理由で自主休講して街をふらふらしたものだ。
横浜の東口地下街を抜けたところに佐々木の右腕の彫像が置かれ「大魔神社」なるものができたりした。
そこには横浜の優勝を願うファンが連日参拝し、優勝を祈願した。
その立地条件が大手百貨店の正面ということも影響して、人足が途絶えることがなかった。
自分も暇があれば参拝したし、マジックのカウントダウンが始まった時は毎日のように賽銭をあげてお参りしたものだ。
設置された9/19から翌年1/17までの賽銭総額は1660万円にもなったそうだ。
優勝が決まった日。自分は夜までバイトだったのだが、横浜駅前のショッピングビルに設置された巨大スクリーンを大勢の仕事帰りの人々と一緒に見守った。
最終回。大魔神佐々木がマウンドにたつ。
そして、その瞬間
――横浜の街が、歓声をあげた。
横浜駅前が震えた。そこにいたすべての人間が踊りあがり拍手喝采をし、叫び、泣いた。
お互いに知らないような相手と一緒に万歳したり、抱き合ったりしていた。
自分はそのまま横浜スタジアムの方に行ったり、号外を集めたりした。
そして関内から乗った京浜東北線内。誰かが叫んだ。
「横浜ベイスターズ優勝だああああ!!!」
その車両にいた全員が横浜ファンだったわけではないだろう。
それなのに
「おめでとう!」
「ばんざーい!」
声が上がり、自分のいた車両とその隣の車両で万歳三唱がされた。
繰り返すが電車内だ。球場帰りのファンだけが乗っていたわけではない。
それなのに乗客までがベイスターズの優勝を祝った。
あんなことは、もう二度と体験できないだろう。
そうして、佐々木はその後大リーグにチャレンジする。
大リーグでも日本人クローザーとしての記録を立てた。
横浜ファンとしては彼の渡米は痛手であったけれど、それでも横浜の誇る投手が海外でも通用したことは、大変嬉しいことだった。
数年を経て彼は横浜に帰ってきた。自分を育ててくれた球団と言って、野球選手の多くはあこがれるという巨人の水面下の誘いも蹴って帰ってきてくれた。
その後の結果は決してすばらしいものではなく、過去の面影はなかった。
それでも彼が横浜という球団を愛してくれていて、そうして骨を埋めるつもりでいてくれることが嬉しかった。
そんな彼が引退した。親友だという清原に最後のフォークを投げて。
優勝した瞬間以来の男泣きに泣いていた。
横浜の一時代を確かに築いた偉大な投手。最強のクローザー。
引退表明後、記者の今後はどうするのかという問いに彼は言った。
「微力ながらベイスターズの力になりたい」
大魔神はやはり、ハマの大魔神なのだ。たとえ引退しても、いつまでも。
1998年には夢をありがとう。そして、お疲れ様。
まあ地元球団ということで何の疑問もなくファンになったわけだが。
ファンといっても好きな野球チームは?の問いに対する答えが即決まっているというだけで、全然真面目なファンではないのだが。
スタメンが言えるかと言えば全然言えないし、ペナントレースも負けたのかーと思うだけで特に何とも思わない。
ただ、それでも万年5位時代もそこそこには気にして、まあそこが定位置、最下位じゃなきゃいいか、巨人とか首位をいじめられればいいかと満足していたりした。
むしろ下手にAクラスなんかにいると落ち着かなかったりするわけで。でも横浜ファンはえてしてそんなもののような気がする。
強すぎると「何かの間違いじゃないのか」とか思うのだ。
そんな遠慮深いというか小心な横浜ファンが豹変した年があった。
忘れもしない1998年。横浜は首位を独走し、シーズン終わりまでそのまま走りきった。
あの年のことは今でも鮮明に思い出せる。
学生だった自分は通学とバイトで横浜や、スタジアムのある関内を経由していたのだが、夏辺りから街はどこもベイスターズ応援一色だった。
俄かファンもすごく多かったと思う。それでも横浜全体でベイスターズを応援しているという空気だった。
何しろ横浜ベイスターズが優勝するのは前身の大洋ホエールズの頃から数えて38年ぶりだったのだ。
あの年のスタメンは全員言えたし、投手陣の名前も言えた。
あの年こそが、まさにベイスターズの黄金の年で、最高のスタメンだったと思う。
そんな中で最も優勝に貢献し、チームを38年振りの優勝までその右腕で引き上げたのが、大魔神佐々木だ。
彼がマウンドに立った時点で勝ちが決まった。
投手は彼まで繋ぐことができれば勝てると信じていた。
打者は彼がマウンドに立てるように点を取ればいいと思っていた。
ファンは彼がマウンドに立った時点で勝利を確信した。
そうしてそのすべての信頼を背負って、一勝一敗45セーブ防御率0.64という偉大な記録を打ち立て優勝をもぎ取り、皆に届けてくれた。
あの年の横浜の街は本当におかしかったと思う。優勝が近づくとどこもかしこも浮き足立っていた。
自分も「ベイスターズが優勝するから」などというわけのわからない理由で自主休講して街をふらふらしたものだ。
横浜の東口地下街を抜けたところに佐々木の右腕の彫像が置かれ「大魔神社」なるものができたりした。
そこには横浜の優勝を願うファンが連日参拝し、優勝を祈願した。
その立地条件が大手百貨店の正面ということも影響して、人足が途絶えることがなかった。
自分も暇があれば参拝したし、マジックのカウントダウンが始まった時は毎日のように賽銭をあげてお参りしたものだ。
設置された9/19から翌年1/17までの賽銭総額は1660万円にもなったそうだ。
優勝が決まった日。自分は夜までバイトだったのだが、横浜駅前のショッピングビルに設置された巨大スクリーンを大勢の仕事帰りの人々と一緒に見守った。
最終回。大魔神佐々木がマウンドにたつ。
そして、その瞬間
――横浜の街が、歓声をあげた。
横浜駅前が震えた。そこにいたすべての人間が踊りあがり拍手喝采をし、叫び、泣いた。
お互いに知らないような相手と一緒に万歳したり、抱き合ったりしていた。
自分はそのまま横浜スタジアムの方に行ったり、号外を集めたりした。
そして関内から乗った京浜東北線内。誰かが叫んだ。
「横浜ベイスターズ優勝だああああ!!!」
その車両にいた全員が横浜ファンだったわけではないだろう。
それなのに
「おめでとう!」
「ばんざーい!」
声が上がり、自分のいた車両とその隣の車両で万歳三唱がされた。
繰り返すが電車内だ。球場帰りのファンだけが乗っていたわけではない。
それなのに乗客までがベイスターズの優勝を祝った。
あんなことは、もう二度と体験できないだろう。
そうして、佐々木はその後大リーグにチャレンジする。
大リーグでも日本人クローザーとしての記録を立てた。
横浜ファンとしては彼の渡米は痛手であったけれど、それでも横浜の誇る投手が海外でも通用したことは、大変嬉しいことだった。
数年を経て彼は横浜に帰ってきた。自分を育ててくれた球団と言って、野球選手の多くはあこがれるという巨人の水面下の誘いも蹴って帰ってきてくれた。
その後の結果は決してすばらしいものではなく、過去の面影はなかった。
それでも彼が横浜という球団を愛してくれていて、そうして骨を埋めるつもりでいてくれることが嬉しかった。
そんな彼が引退した。親友だという清原に最後のフォークを投げて。
優勝した瞬間以来の男泣きに泣いていた。
横浜の一時代を確かに築いた偉大な投手。最強のクローザー。
引退表明後、記者の今後はどうするのかという問いに彼は言った。
「微力ながらベイスターズの力になりたい」
大魔神はやはり、ハマの大魔神なのだ。たとえ引退しても、いつまでも。
1998年には夢をありがとう。そして、お疲れ様。
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